闇の果て (八)

 刑場を出ると弥助はひたすら帰路を急いだ。
 とにかく一刻も早く家に帰りたかった。
 家に帰って眠りたい。
 しかし気は急くのだが足は思うようには運ばなかった。
 どうしたことだろう。一歩一歩が宙を踏むように心許無く身体は一向に前には進まないのだ。
 いいようにない無力感が弥助に伸し掛かっていた。
 体力には自信がある弥助が初めて経験する感覚だった。
 疲れたのだ。少し疲れ過ぎたのに違いない。
 丸一日、雨の中を歩きまわったようなものだ。知らない町をあちらこちら訪ねて歩く気苦労も馬鹿にならない。
 そうして杉蔵との対面ではどれ程、緊張したことか。

 雨は夜が明けるにしたがって、幾分小降りになってきたようだがそれでも濡れそばった衣服が乾くというわけではない。
 ふいに寒さを感じると思わずくしゃみが出た。
 続けてもう一つ大きなくしゃみをすると弥助は鼻をすゝった。
 そうだ、風邪をひいたのだろう。
 杉蔵とどれ程の時間じっと雨に打たれていたことか。
 あの時は寒さを感じる余裕もなかったがやっぱり身体は冷えていたのだ。
 冷えと疲れでどうやら風邪をひいたようだ。
 弥助はもう一度、くしゃみをすると鼻をすゝった。

 しかし意識は避けようとする方向へ結局、引き寄せられていくようだった。
 俺は怨霊にとりつかれたのではないか。
 あの河原には不本意に生命を断れた人間たちの怨念が満々ているはずだ。
 人が近づきたがらないのはやっぱり、それなりの理由があるからだろう。
 怨霊にとりつかれる話は弥助のまわりにも掃いて捨てるほどある。
 そんなおどろおどろしい話は聞き流すことにしていた。自分には関係なかった。
 気の小さい奴、体力の弱った者がとりつかれるものだと思っていたのだがなにせ、俺はあの場所に長く居すぎた。
 すると俺もじきに死なねばならないのだろうか。
 そうなっても仕方無いだけの経緯はある。
 弥助は自分が手がけた女の死顔を思い出そうとした。
 目を剥いて死んでいたはずだ。
 せめて俺は目を閉じて、手を組ませてやってもよかったはずなのに、そんな余裕はまるでなかった。
 いつか涙がにじみ出ていた。
 かわいそうだ。あの女も俺もみんなかわいそうだ。

 だが弥助のまとまった思考はその辺までだった。
 あとはとりとめのない想念が断片的に浮ぶばかりでそれも長くは意識に残らなかった。
 ふわふわと弥助は前のめりに泳ぐように歩いていた。
 小雨の中、ぼちぼちと人が往来に現れ始め、町は目覚めようとしていた。
 職人たちが足早く往きかい、物売りは声を張り上げている。
 だが弥助を見ると誰もがあわてて路をあけた。
 人は引かれ者でも見たようなつもりだったかもしれない。
 弥助はうすく笑うような反応をした。
 それさえも意識にはない状態だった。
 泣きながらうす笑いを浮べ弥助は歩いていく。
 ただ帰巣本能のようなものだけが弥助を前に進めていた。

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