闇の果て (五)

 弥助は十九才になっていた。
 春、畔の縁の雪が融け、桜が散り、郭公が鳴き始めると百姓の血は騒ぐ。
 待ちに待った田植えの季節だ。
 夕暮れどきなど、すでに目の前に海とみまごうばかりの景色が広がっている。
 秋の実りを思い描いて気がはやるのはなにも弥助にかぎってのことではない。
 水を張った田はおだやかに輝き、蛙の声も夜毎に大きくなっていた。
 もう少し、水が温るむといよいよ苗取りも始まるだろう。

 そんな矢先のことだった。
 城下から役人が配下を引きつれてやってくると庄屋の屋敷に陣どった。
 先だって峠で起った殺人の取り調べだという。
 さすがに弥助の心もざわめいたがそれはほんの一時のことだった。
 あれはもうずいぶん昔の出来事だ。そもそもが誰も知らない。じっとしていればそれですむのだ。
 もっとも弥助は自分が人を殺したことを忘れていはいなかった。
 なにかの折、それは突然甦って、弥助を嘖んだが、じっと静かに暮らしていると、その波紋は小さく間遠くなることをいつか経験的に知っていた。
 そうして、目立たぬようにひっそりと暮らすのは弥助の性格にも合っていたのだ。
 傍らで眺めていればみなやがては過ぎていく。

 役人が事件について、おざなりなことは弥助はよく知っている。
 しかしこの度はどうも本気のようだ。
 一罰百戒のつもりかどうか、たまに役人はこんな大鉈を振ってみせる。
 なに殺されたのがたまたま隣藩の御用商人だったからさとしたり顔で話す者もいた。
 隣藩から事件の解明をせかされて巳を得ず奉行所も重い腰を上げたのだという。
 殺された男は伴を連れずに歩きまわるのを癖にしていたがなんでも藩の懐具合を左右する程の大物だったそうだ。だからうとましく思う対立派に殺されたという噂もまんざらでまかせでもなかったかもしれない。
 たしかに帯刀した壮年の男を村の者が襲うなどとは考えづらいことだった。
 だが役人たちは村に乗り込んできたのだ。

 翌日、村人たちは呼び出されて一人ずつ庄屋の庭先で尋問を受けた。
 当然、弥助も例外ではなかった。
 襷、鉢巻に棒、刺股をかまえた捕方に周囲をかこまれ弥助もさすがに緊張したが、吟味そのものはむしろ気抜けする程ゆるやかなものだった。
 もっとも一ト月も前の行動を克明に覚えている方が不思議なくらいのものだ。
 弥助はこの件には関わりがなく、その意味では気持にもゆとりがあったがしかしこんな調子でらちがあくのかという疑問は残った。
 だがそれで農作業はほぼ一日遅れたわけだ。

 二度目の呼び出しを受けたのは中一日おいてのことだったがその時、集められた農民たちはあきらかにいらだちを匿さなかった。
 仕事の予定は狂うばかりだ。
 百姓に米を作らせないのなら死ねというのと同じことだろう。
 役人はそうやってゆるゆるとかまえていてもなんとかなる。
 しかし役人たちの食事や接待もみな村の掛りだから貧しい村では馬鹿にならない負担だった。
 弥助にはようやく役人たちの魂胆が透けて見えたような気がした。
 こうして、百姓たちを追い詰めれば仲間うちの結束は崩れやがて密告者の一人や二人、現れるに違いない。
 密告、この言葉が思い浮かぶと、弥助は落着きを失った。

 あれはいくつの時だったろう。
 親たちがはばかるようにひそひそ声で話していたのをふと目を醒した寝床で聞いた記憶がある。
 子供心にも衝撃だったから弥助は今も覚えていた。
 村の為だ、かわいそうだがしかたがない、そう父親ははっきりといった。そうして翌日、たしかに村の男が一人、城下に引かれていったのだ。
 罪のない者に罪を着せる、ひょっとすると今度もそんなことが起きるかもしれない。
 いざとなれば真犯人などどうでもいいのだ。
 いったん犯人と目星をつければあとはどうにでもなる。
 逆さ吊り、石抱き、水責め、過酷な拷問に耐えきれず誰れもが身に覚えのない罪を白状することになる。
 とにかく犯人さえ挙れば役所の面目はたち、村には平静が戻るのだ。
そこにまで考えが及ぶと弥助はいかに自分がこころもとない立場にいるかを思いしって怯えずにはいられなかった。

 親も嫁も子もいない自分を犠牲にしたところで、誰に不都合があるはずもない。まして俺は嫌われものだ。まんざら身に覚えのないわけでもない。
 皆の心にそういう思惑がわくだろう。誰かが一言口走ればそれで決まりだ。
 今ごろはそんな讒訴が庄屋の庭先で行われているかもしれない、そう思うと弥助はいてもたってもいられない気持だった。
 二晩、三晩と、眠むれぬ夜が続いた。
 眼を真赤に充血させて、いっそ自分から罪をかぶって出てやろうかと弥助は思ったりした。
 その方がどれだけ楽になることか。
 そんな時だった。
 犯人が捕まったと弥助は知った。
 人の目も憚らず、弥助はその場にへたりこんだ。

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