その年の暮れ

(四)
 ここ数日、与平は忙しかった。
 桔梗屋の注文をなんとか年内に割入ませる為にはそれなりの遣り繰りはしなくてはならない。
 押木に向った与平は削り上げたばかりの三味線撥に椋の葉を当てて仕上げの磨きにかゝっていた。
 気を抜かずに磨く。根気よく磨いていくと象牙は内から輝いてくる。唐方の象牙はやっぱり肌理が違うと思う。
 火の気もないのに与平はうっすらと汗ばんでいた。
 そこへ与平さんと突然、声がかゝった。
 いつ入ったのだろう、土間に小僧が立っていた。
 親方がちょっと来てくれないかって。
 今までにもそんな具合に時々、源次の呼び出しはかかった。
 行くと酒の相手をさせられたり、急ぎの仕事を手伝わされたりする。
 よし、わかった、あと少しですむと思ったが与平は潔く手を止めた。

 おれの兄弟子の娘でお葉っていうんだ。これがガキの頃にはなんどか会っているはずだが覚えていねえかい。
 与平が入っていくと機嫌のいい顔で談笑していた源次が相手の娘をそういって紹介した。
 与平も昔、薄汚れた小娘がたまに親方の家にやってきて晩飯を食べたり泊っていったりしたことがあったのを覚えていた。
 あの娘がたしかお葉といったはずだ。
 父親が早死して大変なんだという話ではなかったろうか。
 会釈をすると視線を合わせることなくお葉は目を伏せたのでその分、与平には余裕を持って観察する時間があった。
 綺麗な女だった。綺麗なだけにその質素な身なりが妙にちぐはぐでこの女が今、けして幸せな生き方をしていないことがしのばれた。

 お葉はな、病気のおっかさんの世話をしていてすっかり婚期を逃しちまった。今23才だ。
 お前は27才だったな、ちょうど似合いの年恰好だ。
 こいつを嫁にもらってやってはくれまいか。
 お葉は身を堅くしてちぢこまっている。
 なんとなく、そんな話もあるかもしれないという予感はあったがいきなり源次にそう切り出されて、与平はあわてた。
 おやっさん、そちらさんにも思わくはおありでしょうし、あっしだって、猫の子をもらうようなわけにはいきません。少し時間をいただきてえもんだ。
 あわてた割にはうまいその場の言い逃れができた、と思った。

 ひとときの後、お葉は帰っていき、与平は奥に誘われて酒になった。
 あいつの父親は弥七といって、俺の兄弟子でずいぶん世話になったもんだ。
 源次は普段、昔話をするような男ではない。お葉の出現と酒の酔いが源次を感傷的にさせたらしかった。

 腕は良かったが手が遅かった。几帳面な男で手が抜けねえから仕事が遅れる。それを繕うために夜業を重ねる。廻りが悪いっていうやつだな。
 もともと線が細かったが胸をやられて、あっという間に逝っちまいやがった。残された女房、子供はみじめなもんだったぜ。下の娘はすぐに養女にもらわれてったがあいつは母親の傍を離れなかった。
 母親が小料理屋の下働きで稼ぐわずかな金でなんとか食いつないでいた。
 そのうちこんどは母親が倒れちまって、なんでも、かんでもがみんなあいつの肩にのしかゝった。
 俺も孤りだちしたばかりの頃でなんの力にもなってやれなかった。
 それをなんとか凌いできたんだ。あいつはたいした女だぜ。
 源次はげんこつで涙を拭った。親方も年を取ったのかもしれない。

 その母親がこのあいだ死んで今、あいつにはなにもなくなっちまった。張りもない。支えもない。放っておいたら、一年もしねえうちに岡場所に身を晒すか首を括るかわかったもんじゃねえ。
 俺にゃそれが心配でならないんだ。女なんてやつは誰か男がしっかり支えていてやらなきゃすぐにぐずぐずになっちまうもんだ。
 なあ、与平、嫁にもらってやれ、あれは本当にいい女だぜ。
 源次の口説きに心が動かされないわけではなかったが、与平の頭には跛という負目が常にこびりついている。
 俺の裸の不様さにきっと女は目を背けるだろう。
 いくら誘われてもけして悪所に出入りしなかったのは金を払って女に蔑すまれるんじゃ間尺に合わないと思うからだ。
 哀れみか蔑すみかを心の奥に密めた女などと暮らしていけるわけがない。
 相手が美しい女だと意識をすればそれだけ与平の確信は堅牢なものになった。

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