希望ヶ丘まで 2

 鷹栖町は人口およそ7600人、旭川市に隣接する広大な土地で、上川百万石の中核となる米作地帯だ。
 鷹栖の縁をたどれば多少はないわけでもなかった。
 私は春になれば山菜採りにこの町の奥に入り込んでいたし、仲間と畑を借りてとうもろこしを作ったりしたこともある。
 越して来いといわれている中学校にはかつて特殊学級があって、そこには二度か三度、陶芸の指導に行っている。なかんずく、この学校の最後の校長だった人の娘を、今、まさに私は高校で教えていた。しかしだからと言われればどれもこれといって取り立てて言える程の縁とも思えない。
 どうして私に白羽の矢が立ったものか、このあたりの事情はいまだによくわからない。

 女房に相談するとそれもいいんじゃないという答だった。私は長男で折があれば親の世話もしなければならないと思っていた。ちょうど住める家が二つある。そんなことも含めて親にも話した。親も迷わずに移るという。

 家族以外はみな反対だった。義父は土地、建物の名義をお前に書き替えてやるからそのままいろと引き止めた。方々に事業を展開している人だったから血縁につながる者を手元から失いたくはなかったのだろう。
 友人たちは異口同音に食えるならそんなど田舎に都落ちはやめろと言った。
 悪友の一人が目の前から消えるのが寂しかったのかもしれない。

 しかし話は動き始めていた。
 役場は思いの外積極的だった。
 金の手当てがつかないと泣きを入れれば借りられるように算段はつける、引越しにも手を貸すから心配するなという話だった。
 とにかく雪が降るまでには移れと、その一点張りだ。
 校長住宅と教頭住宅は私の家族と親たちがそのまま使う。一棟二戸の教員住宅は中を取り払って倍に建てまして工房にしたい、計画を話すと次の日には業者が来て、一週間後には工事が始まるといった按排だった。
 役場の窓口だった企画課には今の町長や副町長がいたのだが、ここまできたら何が何でもやり遂げるという気概に満ちていて私ももうぼやぼやしているわけにはいかなかった。

 そうして、-----十月十日、体育の日にまず親たちが引越した。約束どおり役場の連中がおんぶにだっこで面倒をみてくれた。
 十月二十日に私たちの家の引越し、二十三日が工房、窯や土練機など重量物はすでに業者の手で運び終えていたが、それでもよくもまあこれ程というぐらい物があった。自分でもいやになったぐらいだから役場の連中もよく最後までつき合ってくれたものだと思う。

 この年はこうして私にとっては忘れがたいものとなったが周囲の農家にとっても、また別の意味で生涯、記憶に刻み込まれることとなった。
 私たちの引越しの合い間を狙ったように二度、三度と大雪が降って刈取り前の稲をなぎ倒していた。田んぼはほぼ全滅の状態で近来まれにみる大凶作の年になってしまった。引越しで大汗をかいた連中も息をつく間もなく今度は援農にかり出されて、青田刈りの手伝いをさせられたはずだ。
 厄病神呼ばわりされずに済んだのは幸いというべきだろう。

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