タケⅡ

 その時、雀荘で卓を囲んだその一人がタケだった。
 同級だと紹介されたが顔を見た記憶がない。けげんな気持ちが表情に出たのだろう。
 去年は一級上だったんだ、おととしは二級上か、来年は間違いなく後輩だ、すかさず棚沢が付け足した。
 大学に籍を置いてさえいりゃあ、とりあえず親は納得するからな、俺はぐずぐずいわれねえ時間さえあればそれでいいんだ、タケもそう吐き捨てた。
 こいつ、おとなしくやっていりゃあ、一生金に困ることなんてないのにマージャンに狂ったばかりに勘当寸前なんだ。黒くくすんだねずみのような顔貌からは想像もつかないが大金持ちのおぼっちゃんなのだという。どうしたって表舞台の金持ちの子には見えない。古紙や空ビンを取り仕切る乞食のような老人がそこら辺の公務員など足元にも及ばぬ豪勢な暮しをしていると聞いて目をむいたことがあるがその類なのだろうか。この大学には華僑とか、在日とかその他得体の知れない親を持つ学生が少なくなかった。ひょっとすると私の知らない世界の住人であったりする可能性は充分あった。
 少なくても二つ三つは年上に見えるが松木までもが気安くタケと呼び捨てるのもその辺の事情が絡んでいるのかもしれない。
 私も皆にならってタケさん、タケさんと言っているうちに正式な名前は聞きそびれた。

 私とタケは対面の席を引いた。偶然だが互いがもっとも意識しあう席順だ。
 強いと聞いたから私は当然タケの手元に注目した。圧力は感じさせなかったが手馴れた牌捌きだった。理牌しない打ち手に会うのは久しぶりだった。私も理牌を止めて盲牌だけで手牌の出し入れをし、目は河から動かさなかった。つまらぬ見栄だが久しぶりに自分の実力が評価されると思うと自然に力が入った。
 タケも私にターゲットを絞ったことが感じられた。
 棚沢と松木はノーテンキにビールを浴び、よた話に笑い転げながら牌をいじくっている。

 私は小学生の時からマージャンを仕込まれた。
 母はやっぱりマージャンが好きで仕方なかったのだ。
 大戦時、病院船で幾度も大陸を往復した従軍看護婦だった。尉官待遇というから少なくても二、三十名の部下を掌握していたはずだ。病院船は返りは蜂の巣をつついたような大騒動だが往きは呑気なもので母も軍医たちを相手に四六時中マージャンにほほけていたという。
 当時が母の一番、輝いていた時代だったのだと思う。よく想い出話を聞かされた。
 そういう過去を総て封印して、結婚したのだったがマージャンだけは捨て切れなかった。
 男だったらマージャンぐらい一人前に打てなくては、というのが母の言い分だったが実際には一人でもトイツが欲しかったのだろう。
 私は小学生で大人に混じってマージャンを打った。
 母は華やかなきれいなマージャンを打った。強かった。私はそんな母にほめられるよい弟子だった。
 マージャンの他に母が私に望んだのは読書することだった。本さえ手にしていたら安心しているふうがあった。そして私は性格的にも深くそれらに馴染んだのだ。
 文章はしょせん語彙がすべてだ。眼から血を流す程の読書を続ければ多少の文章など誰にだって書ける。私は作文でもちょっとしたコンクール荒しだった。
 母はいったい私にどんな人生を想定したのだろう。ひょっとすると私が障害児になった途端、期待の上半分はあっさりと吹き飛んだのかもしれない。
 マージャンと読書、私は今、母から手渡されたわずかな資本を元手に一人歩きの二歩三歩を始めたところだった。
 よくやっているとほめられてもいいようなものだ。

 半荘四回、四時間あまりがまたたく間に過ぎた。
 結果は私がトップで棚沢が二着、タケがしょぼしょぼの三番手で松木の一人負けだった。
 清算を済ませて、外に出ると辺りはもう暗かった。
 飯でも食うか、勝ち逃げがいやで私が誘った。
 気にするな、じゃあな、棚沢と松木は片手をあげると離れていった。そろそろ別の遊びが始まる時間帯なのだろう。午後六時を過ぎていた。
 俺も今日は行くけど、今度一度つき合え、あとに残ったタケが言った。
 いいよ、半分はその場限りの愛想のつもりで答えたのだが、じゃ連絡先を教えろとタケはけっこうしつこかった。
 私もタケに見込まれたのだ。

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