もしもピアノがひけたなら

 音楽はまるで駄目だ。演歌なら一、二曲は何とかはずさないで歌うことが出来る。どうしても人前で歌わなければならない時にはそのとっておきの一、二曲を使いまわす。調子に乗って他の歌に手を出すと周囲が露骨に白ける。それ程、場の空気が読めないわけではないからあとはひたすら手をたたく側にまわる。同じ金を払って馬鹿らしいと思うが仕方がない。

 父親は酒の飲めない人だったがそれでも酔うと軍歌をどなった。歌というものではないなと子供心にも思ったものだ。
 子守唄代わりに聞いた歌の記憶がある。それが“青葉の笛”だとわかったのは母親が死んでしばらくしてからだ。その時は泣いた。しかし私がものごころがついてからの母親は歌わなかった。たしなみもあったのだろうが、やっぱり自信もなかったのだろう。こんな具合で私は音楽には恵まれなかった。

 昭和二十年代後半から三十代前半の義務教育の音楽もかなりひどいものだった。一つ教室に六十人を超える生徒を詰め込んで教師の弾くオルガンに合わせて唱歌を歌う。週一度、毎度毎度がこれだった。妙に裏返った高い声で得意気に手本を示すいかにもうだつのあがらない中年の男をどうして尊敬できただろう。私たちはしばしば叩かれたり、立たされたりしたが、一度なめられたら、教師なんて憐れなものだ。

 しかし、音楽に才能のある者、好きな者、努力する者はそんな中からでもちゃんと芽を出してくる。小学校の五、六年生になるとぼつぼつハモニカを吹く少年たちが現れた。私たちはそんなハモニカ少年を囲んで草原にたむろして、うっとりと聞き惚れたり歌ったりしたものだ。今の小沢昭一よりどれ程、うまかったかしれないと思う。

 世の中は敗戦のどさくさを過ぎて動き始めていた。すでに恵まれた家庭の子供たちはピアノやバイオリンを習ったりしていたことはもっと後になって知った。妻は同じ年だが琴を習っていたというから大したものだ。
 
 高校時代はフォークソングの大ブームだった。誰もかれもがギターを抱えて歌っていたような気がする。コードさえ覚えれば簡単なんだ、やってみろよと何度もすすめられたが、もうその頃には音痴というレッテルを自分でしっかりかかえ込んで音楽の話を人前でするなどまったくおよびもつかなかった。

 もしもピアノがひけたならという歌がある。才能もない、努力もしない、だけど音楽が嫌いだったわけではない、私のような団塊の世代の心情をうまくついた歌だと思う。西田敏行がそれ程上手でないのもいい。
 もしもピアノがひけたなら、やっぱり少し違った人生だったような気がする。

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