三浦先生のロクロ

 綾子先生は本当のところ、どれぐらい焼きものに関心がありだったのだろう。
 思いがけない知遇を得るきっかけもおそらく私が陶芸家であったことと無関係ではなかったと思う。
 私が義父の土地を借りて独立したのは昭和51年6月のことだが、工房が先生のお宅から歩いて五分もかゝらない場所であったのはまったくの偶然だ。
 その偶然に私はどれ程感謝したかわからない。

 6月14日、パリ祭の日に私は開窯した。別にそれに特別な意味があったわけではないがちょっと気取ってみたかった。
 しかし不思議なものだ。いったん気に入ってもらえるとそんなことさえ大いに先生を喜ばせることになった。
 
 開窯といっても、その日に窯に火が入るわけではなく、まず中に詰める作品から造らなくてはならない。
 最初からけっこう大きな窯を据えたから、その分、作品造りも大変だった。
 先生がいらっしゃった時もやっぱり私は一心にロクロを引いていたような気がする。

 先生はすでに流行作家としての地位を確立なさっておられて、私もそのお顔は存じあげていた。思いの外、小柄な方だというのはその時の印象だ。ついでに言っておけば私は文学青年の成れの果だがまだ先生の作品は読んだことがなかった。29歳、小難しい、生意気盛りの青年だった。
 その時は、なにか時代小説を書いているのだが、その中に焼きものの話がしばしば出てくる、ついては焼き物にかゝわる職人の特殊な言葉のようなものがあったら教えてほしいというようなお話ではなかったろうか。
 ぼろが降る、とか窯きずが出るとかそんな言葉をお教えしたような気がする。

 私は人生最初の著名人との邂逅に舞い上がっていた。それを態度に表わさないよう苦労した記憶がある。
 先生は話の合間には手を止めるな、仕事を続けろというようなことを仰った。
 仕事の邪魔をしたくない、そんな思い遣りもおありだったことと思うが作家としての好奇心もほのみえていた。
 そうして物造りはそんな眼差には過剰に反応してしまう。だいたい初対面の相手に平気で仕事姿を見せる職人などまずいない。
 なんなのかと思惑だけが先走るぎこちない対応だったにちがいない。

 そのなにがよかったのか、それをきっかけに先生はしばしば工房を訪れて下さるようになった。
 たまに光世さんがごいっしょの時もあったが先生がお一人のことの方がはるかに多かった。
 光世さんは焼きものより将棋やカラオケの方に興味がおありだったのだろう。

 本当に先生は好奇心の塊のような方だった。
 粘土のこと、窯のこと、道具のこと、時にはノートを片手に次々と質問を浴せられた。
 いいかげんな返答などしようものならたちまち鋭い突込みが入る。
 私は口頭試問を受けているような錯覚さえ覚えたものだ。
 
 しかし先生が実際に粘土を触れられるまでにはさらにしばらく時間がかゝった。
 私には妙な遠慮があった。
 先生はすでに充分おいそがしく、取巻きの人たちもいて、新参の私が独占する時間などありそうにも思えなかった。
 先生も積極的な姿勢をお見せにならなかったのは似たような理由からだったろう。
 だから先生がすでに焼きものの道具一式をお持ちであったことを知った時の驚きは小さくなかった。

 私が先生のお宅に出入りを許されたのは最初の出会いから三ヶ月もあとのことだったろうか。
 導かれるまゝ付いていた物置の奥に立派な窯やロクロがでんと居座ていた。
 立派とは金をかけたというほどのことで、なにをどう造りたいのか、そんな意志がまるで伝わらない品拵えだった。
 しかもまったく手が付けられた形跡がない。
 だいたい窯を売ったら、一度、二度、焚いてみせるのは業者の側の責任だ。
 素人をだますような真似をしやがってと腹が立ったがこれがもし先生の御意志で集められたものだとしたら、それはもうだまってうなずくしかないことだった。
 畏れ多くてたしかめることはできなかったが実際のところはどうだったのだろう。

 使えそうですか、小さなお声で先生はたずねられた。もっとも先生のお声はもともと小さい。
 先生、こんな道具を使う、使わないより、それならまず粘土をいじってみましょうよ、恫喝するつもりはなかったが、私の地声はとにかく大きい。

 それからしばらく先生は工房に通ってこられて、小さな作品をいくつか作られた。
 しかしお仕事はますます、いそがしく、やがて、御病気を得られるに及んで、いつか先生の作陶は立ち消えになってしまった。
 焼きものの道具を始末したいむねの意向は秘書の八柳洋子さんから伝えられたのだったろうか。
 みな差し上げるというお話はお断りして、とりあえずロクロだけお預かりすることにした。

 この話は先生がお書きになることはなかったし、洋子さんもお亡くなりになり、光世さんの記憶がおぼつかなくなった今では八柳務さんが唯一の証人ということになるだろうか。
 先生のロクロは今も私の工房にある。

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