冬隣

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 欠礼挨拶の葉書はどうして、どれも一様に紋切型になるのだろう。
 やんことなく急場を凌ぐものであればわからないでもないけれど、そうでなくても結局、似たり寄ったりのところに落着いてしまうようだ。
 賀状にはひとかたならぬ凝り方をする人であっても、こと喪中葉書となるとなぜか御座成ですませている。
 あるいは故人とのかかわりをできるかぎり寡少にして、早く忘れたいという無意識でも働くのだろうか。
 それにしても葬儀には今日風の工夫をあれこれに凝らすのだから、こちらにも、ひとひねり、独自色を出す努力があってもいいように思われる。
 遺言状のことを考えれば本人手書きのお別れの言葉がとどいてもそれ程驚きはしないだろう。

 10月の中旬にひとしきり降って、そのまま根雪になるかと思われたがいつの間にかぐずぐずと溶けてもうじき12月だというのに陽のとどくかぎりあたりには雪がない。
 雪のないかぎりはまだ冬ではないと思う気持がどこかにある。
 それがなにかちょっとした余裕をうんでいる。
 なんの実体もない余裕。

 今日は、一時親しく付き合っていつの間にかその名残りのように賀状だけのやりとりが続いてきた—-そんな人からの知らせだった。
 義父が亡くなったのだという。
 会わずに過ぎた歳月を数えてみればはるか、十年は越えている。
 互いに還暦も過ぎたなあ、そう思いながらふとお会いしたこともないその義父なる人の冥福を祈っていた。
 冬隣—-日本語にはときどきどきりとするような奥深い言葉がある。

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