ふりさけみれば4 綿あめ慕情

 どんなにおいしいものだろうと思っていた。地方によっては電気あめ、綿菓子とも呼ぶのだろうか、あの夢か、雲のようにはかなくふくらんだ綿あめのことだ。いかにも特別な日の特別なおやつらしく夏のあいだだけ、祭やお盆には駄菓子屋の横に屋台が出た。
 風よけのフードの中、ザラメが熱せられて、くるくる回転する機械の中心から糸のように吐き出されるのを、割りばしをたくみにあやつりながらからめとっていく。白いダボシャツのおやじをまさか奇術師とも思わなかったけれどまるで手品のように割りばしの先にはみるみる綿がまきついた。食べられなければ食べられないだけ、妄想は頭の中で増大する。
 親が駄目だといえばあきらめるしかないのだが、心のどこかに不満がうずまいていた。
 安価なものだった。近所の子供たちはみな小づかいで買っていた。それで腹をこわした話も聞かない。
 だが、きたない、病気になると、うちでは禁止されていた。
 とにかく制約の多い家だった。まんが本を見てはだめ、本の貸借はだめ、遊んでいい友達、悪い友達というのもあった。親が梅毒だったり朝鮮人だったりしたのだったろうか。
 坑員住宅のならびには出入無料の共同浴場もあったが、私たちは毎日入浴させられた。
 夜、出歩くなどもってのほか、買いぐらいが許されるはずもなかった。
 5円、10円と小銭をにぎって、駄菓子屋にたむろする子供たちが心底うらやましかった。
 弟もきっと同じ気持だったと思う。
 
 2つ違いの弟は格・いたると言った。父が世話になった人の名前をもらったと聞く。その人とどういう付き合いがあったのか、長い間、賀状のやりとりは続いていた。
 子供の目で見ても私の家はかなり周囲からは浮きあがった存在だった。
 父は自分の感情をコントロールができない人で、だから人間関係のトラブルがたえなかった。
 母は利巧な人だったがそのプライドの高さはやはり人の鼻につくこともあっただろう。
 私が障害をもつことでそれらは増幅されることになったかもしれない。 
 となり近所、どこにでも似たような年かっこうの子供たちがいて遊び相手には事欠かなかったはずなのに幼い頃の弟はいつも私の脇にくっついていた。親がそう、しむけたものか、一人で遊びに出てもいいおもいはしなかったのか。ごく普通の子供だった弟だがおかしな家に生まれてきたばかりに一番割りをくうことになっていたとしたらかなしい。
 
 にいちゃんと呼んで弟はポケットからぐちゃぐちゃにまるめた10円札をとりだしてみせた。私が小学生になったばかりの頃だったと思う。祭の日だった。
 どうしたと聞くと拾ったという。
 これでと弟は私を見た。
 うん、私には弟の考えが自分のことのようにわかった。
 私たちは手に手を取るようにして家を飛び出すと駄菓子屋まで駆けた。
 駄菓子屋の横には案の定、屋台も出ていた。
 迷うことはなかった。
 綿あめ一つとアイスボンボン一つ、それでちょうど10円だ。

 赤痢になると絶対に口に出来なかった、アイス・ボンボン、それもあこがれの品だった。
 風船のゴムよりもいくらか厚手だったかもしれない、ひょうたん形のゴムの中に色をつけた砂糖水を入れて凍らせたものだ。子供の握り拳より一まわり程大きくて、赤、青、白の三色があった。
 普通は乳首のようになった先を鋏で切って、手で暖めてとかしながら吸うのだが口の堅く結んだ紐をなんとかほどくと傷のないゴムの袋が残るので水道の蛇口にはさんで水でふくらませたりして、それで遊ぶことができる。
 それもうらやましかったものだ。

 “購買”の坂をあがると右手は購買部を中心に床屋だの駄菓子屋だのが軒を連ねていたが左手は幼稚園の敷地で本当に歌の文句に合わせて作ったとんがり帽子の園舎があり、広い遊技場の隅にはブランコだのスベリ台といった遊具が並んでいた。園児たちが帰ったあとはそこはあまり人の寄りつかない場所だった。
 私たちは駄菓子屋からブランコへと移動して、ようやく一息ついた。
 なんとしてもアイス・ボンボンの口の紐をほどかなくてはならない。
 それは当然、私の仕事だった。弟は綿あめを右手でさヽげるようにして持つと息をつめて、私の指先に注目していた。
 
 弟が家のさいふから10円札を抜き取ったことはその夜に露見した。
 母は毎日、日記がわりに家計簿をつけていて、一円の誤差もないのが自慢だったからばれずにはすまないことぐらい弟にだってわかっていたはずだ。
 私たちは並んで立たされてしかられた。
 私は泣いたが弟はどうだったか、泣かなかったような気もする。泣いたとしてもそれは悔恨の涙ではなく、自分だってまわりの子供たちと同じようなことがしたいという抗議の涙だっただろう。
 弟の態度が反省的ではなかったからついに私たちは家を追い出されることになる。

 あてもなく家のまわりをさまよいながら見るともなく見上げた夜の空、あの満天の星を私は今も忘れない。
 とりとめもなく大空にちらばった星たちがやがて一つの糸でつながっていき、ある姿を形づくることを私は魔法にでもかけられたような気持で見つめていた。
 北斗七星がひしゃくを形づくると、おどろく程の近さにせまってきた。
 私たちは手をしっかりにぎりあいながら見上げていた。
 私たちはつらかったがそうしていると泣かずにすんだ。
 
 私たちは兄弟だった。
 その弟は40才で死ぬ。もう20年も前の話だ。
 ようやくこの頃はそれ程思い出さずにすむようになったが、たまに息子の後姿が弟に見えることがある。

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