ふりさけみれば3 私の西鉄ライオンズ

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 父は偏執的な西鉄ファンだった。
 勝てば天井が抜けるような大喜びをして、なけなしの小銭を子供たちに配ったり大さわぎだったが負けるとその分不機嫌になり誰かれかまわず当りちらした。
 大正2年、四国、宇和島生まれの父が大阪に出、やがて終戦のどさくさに北海道まで流れつく。
 父の父、すなわち祖父に私は会わずにしまったが、四国では名の知られた指物大工だったと聞く。たしかに大工道具を使わせたら父も目を見張らせる腕を持っていた。子供の頃から親に口うるさくしこまれたせいだろう。それがいやで家を飛び出したらしいがおそらく天職だったにちがいない。以来、父はいくつかの職業を転々としたはずだがどれも生活の糧を得るためのものであって、それに生きがいを見つけることはついにできなかったのではないか。
 北海道でもそれ程、意に沿う境遇ではなかったはずだ。
 西鉄というプロ野球のチームがどこでどうそんな父の琴線にふれたものか。ともかく西鉄の勝敗は直接、家庭の平和に影響した。

 西鉄ライオンズは昭和26年(1951)前身の西鉄クリッパースが西日本パイレーツを吸収合併して成立する。プロ野球が2リーグに分裂した翌年のことだ。
 その年、巨人軍を追われるように退団した三原脩が監督に就任する。
 「われ、いつの日か中原に覇を唱えん」三原は煮え滾る復讐心を胸奥に日本制覇をめざして、チーム造りに着手する。
 翌27年(1952)、東急から実力、人気ともにトップスターだった大下弘を引き抜いてチームの要が出きる。
 怪童、中西太が高松一高から加入したのもこの年だ。
 28年(1953)豊田泰光(三戸商)、河村英文(別府・緑丘高)、高倉照幸(熊本高)。西村貞朗(香川・琴平高)。
 29年(1954)仰木彬(福岡・東筑高校、滝内弥端生(福岡、戸畑高)
 30年(1955)和田博美(大分、臼杵高)、玉造陽二(水戸一高)
 そして31年(1956)稲尾和久(別府・緑丘高)。
 最適の補強というべきか、強運の補強というべきか、これら、高卆ルーキーたちはたちまちのうちにレギラーの座を獲得する。

 西鉄は年ごとに強くなる。それにつれて、父のボルテージも上がる。
 母もいつか、野球のルールをおぼえ、選手の名前をおぼえて、父に口裏をあわせるようになっていた。子供たちが西鉄に強く肩入れするようになるのは当然のなりゆきだろう。
 昭和30年前後、当時5球スーパーと呼んだ真空管ラジオのチューニングをし、乱れがちな音声にそれこそかたずをのんで耳をかたむけたものだった。
 ひょっとすると我家は西鉄に依存することでその絆を強めていったのかもしれない。

 そうして私たちの至福のときがくる。
 昭和31年(1956) 日本初制覇
 昭和32年(1957) 4連勝で連続日本一
 昭和33年(1958) 3連敗のあと、奇跡の逆転、優勝。神さま仏さま稲尾さまの流行語も生まれた。
 私の9才、10才、11才の三年間だ。

 私はその後の落魄もしっている。三原が去り、大下が抜け、中西が故障に泣き、豊田が出ていった。孤軍奮闘の稲尾も力つきる。駄目押しの黒い霧事件は私にも相当なショックだった。
 池永など本当によいピッチャーだったものを。
 しかし、父も年を取って多少の分別をわきまえるようになり私たちも存在感を増しつつあったから再び以前のようなおかしな状況にはならなかった。

 思えば半世紀も昔のことだ。
 しかし私は今でもあのころのベスト・ナインをそらんじている。
  一番 センター 高倉 25
  二番 ショート 豊田  7
  三番 サード  中西  6  
  四番 ライト  大下  3
  五番 レフト  関口  9
  六番 ファスト 河野  1
  七番 セカンド 仰木  8
  八番 キャッチャー 和田 2
  九番 ピッチャー 稲尾 24
 
 なつかしい。

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